認知症が「特別なことでない」暮らしのある風景 ~私はここで人情と、人間と、わたしの認知症を観察しています。~

7.明日のことなどわからない

だから、まぁね、色々と、人生色々。
明日のことはわからない。
その日が1日無事に過ぎてね。
あんまりくよくよ考えないこと。
朝が来れば夜が来る、夜が来れば朝が来るでね。
越路吹雪のなんとかっていう歌、あったじゃない。
♪明日のことなどわからない
ケセラセラ
なるようになるわ
明日のことなどわからない♪(*1)
越路吹雪「ケサラ」



っていう歌あったでしょう。だから私、その歌の文句をね。
それはそうだなと思って。



―そうですね。



それでね、私、思ったんだけど、こういう企画は、1年に1回やってるの?
1年に1回、私を追跡調査したらどうかしら。
1年したら、あの時、偉そうに認知症がどうのこうの言ってた人が、「今はどういう暮らしをしているんだろう」って言って追跡していったら面白いだろうな。
今だったら、「あなたにこういう話をした」っていうことが頭にあるけど、1年経ったら「あなたどなたですか?」ってね。
「あの時、こういう話をしてましたよ」「それは誰の話ですか?そうなんですか。初めまして、よろしくお願いします」
って言うように来年はなってるかもわかんないからね。
だから、それも面白いなぁと思って(笑)。



―じゃあ、毎年来ないといけないですね(笑)。



だからね、人生、考え方によっては、どうせあの世へ行くんですよ、誰だって。
それならこの世にいる間は楽しく、日々を生活していく。
朝が来れば夜が来る、夜が来れば朝が来るでね、そういうふうに思って楽しまなきゃ損だなっていう気持ちです。
まぁ、偉そうなこと言ってるわね(笑)。



―糸川さん、今、お話を始めて1時間ぐらい経ちました。
疲れたりしてませんか?



全然。私はね、お喋りが好きだから。



―それならよかったです。



あのね。話してたら、どんどんどんどん話が。
だから時々、職員さんから「糸川さん、チャックしよう。チャック外れてるよ」って言われて、
「どこどこ?」(洋服を見る)って。
「そこじゃないよ。ここよ(口を指す)」。
「あぁ、これは外れっぱなしよ」って言ってるわね、いつも(笑)。
*1 …越地吹雪『ケサラ』
(作詞:F.Migliacci・訳詩:岩谷時子 作曲:C.Pes・J.Fontana)の本来の歌詞は「だけど明日は/どうなることやら/だれもわかりはしないさ/ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ」ですが、ここでは“糸川節”としてお聞きください。


何かあると、私たちに教えに来てくれるんです。
職員だけでは目が届かないこともあるので、『ありがとう〜』ってなりますね」(職員談)
8.人生はピンチとチャンスの繰り返し





―思い出に残っている俳句がいくつもあるんですね。



そうそう、例えばこれね。
起きて見つ 寝て見つ 蚊帳の 広さかな
加賀の千代女



これは私が書いたんじゃないのよ。
加賀の千代女っていう人が書いた有名な俳句。思い出して書いたのね。
私たち子どもの頃は、夏になると蚊が来るからって蚊帳を部屋に吊ってたの。
蚊帳って知ってる?ある時、「蚊帳を買い換えたのはどうしてなんだ」っておじいちゃんが聞いたから、
孫達が「新しい蚊帳が広くていいから、大きくていいから。
蚊帳に穴が開いてたから、そこから蚊が入ってくるから、新しい蚊帳がほしいってみんながそう言ったんだ」
「蚊が来なくてよかったな」って言って、兄弟たちが蚊帳の中でふざけっこしてたの。
でも私は黙って聞いてて、その時に私が涙ぐんだらしいのね。
おじいちゃんが「あつこ、お前どうしたんだ」って言うから、だってーーさとしっていう弟がね、死んだのよ。
だから「さとしが死んだから、蚊帳の中が広く感じて寂しくて」って言ったらおじいちゃんがーーもうタバコ臭いの、
あの頃はキセルでタバコ吸ってたからーー私を抱きかかえて、「この子はものすごい俳句の素養のある子だ。
この子は大事にして、おじいちゃんの後を継がす」って。
「そうだ、新しく蚊帳を買ったから“よかった”んじゃなくて、ひとり子どもが死んで、今まで5、6人の子どもが蚊帳の中でふざけっこしてたのに、
その弟が死んで蚊帳が広くなった。これはその寂しさを詠った俳句なんだ」って言ってね。
「徳子は文才がある」って、その時にすごく褒めてくれたの。
それで私を俳句の学校へ連れて行って、1ヶ月に1回。(香川県の)有明浜に、なんとか庵っていうとこがあって、
「お前はじいちゃんの後を継いでくれよ」って言って、そこに私を連れてってくれた記憶があるの。
それから、俳句にすごく興味を持ったわけ。
それともう1つは、中秋の名月の時に書いた
名月を とってくれろと 泣く子かな
小林一茶



これは小林一茶が書いたの。
おじいちゃんが「あまりに綺麗だから」って、空を見ながら私たちは外へ出て、それで「お月さんを見てみろ」って。
「中秋の名月って言って、1年でいちばん綺麗な十五夜のお月さんだよ」って言って、みんなで見てたの。
おじいちゃんが一生懸命説明して、その時に私は「だけど、あれ、本当に取りに行けるのかなぁ」言うて、いつまででも見てたの。
他の子どもたちはさっさと「お月さん、結構やの」言うてさっさと部屋に入ったんだけど、
私は「結構なお月さんじゃなぁ」ってじっと見てたら、涙が溢れてきてーー。
私は覚えてないのよ。
でもおじいちゃんは、「この子は絶対に俳句の素養のある子だから、大事に育てなきゃいけない。
“どうげつそうしょう”の後継ぎだ」っておじいちゃんが言ったのを今でも覚えてるの。
人生はピンチとチャンスの繰り返し



―この言葉は糸川さんの言葉ですか?



これはね、野球なんかでも、ピンチになったらチャンスもあるでしょ。
そのことで人生だってあんまり悲嘆ばっかりしてても。
でもチャンスはある。
それから、いい気になってたってピンチになる場合もあるって。
それは私の考えだわね。
だから人生は、ピンチとチャンスは裏表。
常にそれはあるんだってーー夜が来れば朝が来る、朝が来れば夜が来るっていう風な意味合いでね、
それから夏目漱石だったかな、「情にほだされば流される、とかくこの世は住みにくい」。
それはね、おじいちゃんが言ったのでもない。
私が漱石の随筆集だかなんかを読んでね。
「それはそうだな」っていうのが頭にあったのね。
だから、小さい時に読んだものは、今も頭の中に入ってるのね。
9.終戦の頃


「○日の新聞に投稿が載るのよ」と利用者や職員に話し、記事の掲載を心待ちにしていたという糸川さん。
掲載当日には、コピーした記事を職員や入居者に配り、自ら“広報部長”に。



―毎日新聞に載った投稿では、戦争のことにもふれていました。
香川に住んでいらした頃に迎えた終戦記念日について、子どもの頃の目線で書かれています。



毎日新聞『女の気持ち』(投稿欄)。
これはやっぱり昔の終戦の頃の思い出ね。
それはずっと忘れることはできないわね。辛かったわよ。
空でB29がボーンボーンと爆弾を落としてるんだよ。
それに下では、アメリカ兵をやっつけるために、なぎなたの練習。
上からはB29がどんどん、どんどん落とされるのと、どっちがどうなんだろうーー。
子ども心にね、「こんなことして戦争に勝てるのかしら」っていうのは思ったわね。
ねぇ、ほんとに馬鹿なことしたわね。
それで戦死したのは「万歳、よくぞお国のために尽くしてくれた」って。
あたし、今でもそれは頭にあるんだけど、戦争に行って戦死して、それを見送って、日の丸の旗を立てて
「よくぞ日本の国のために尽くしてくれてありがとう」って言って。
でも、そしたら隣の人がひそひそ話してるの。
「うちの主人も、戦争に行って戦死してくれたら恩給がつくのに、戦争にも行かずに家でグダグダしてる。
それならいっそのこと戦争に行って恩給でももらったら、その方がずっと私たちのためになるのにな」
「あの人は今は辛そうにしてるけど、そのうちに国からの恩給が出て、
左うちわの生活になるんだよ。羨ましいな」っていうのを話してるのを、子どもの私が耳にしてーー。
その人の前に行ってね、私。
「恩給をもらうために戦死するなんて、よくもそんなことをあの人の目の前で言えるな」って言ったわね。
これ、子ども心にね、涙ふいてね。
それも忘れられない思い出よね。



―新聞やニュースを見ていると、今も世界中で戦争が起こってます。



私はね。いちばん、何より嫌なことは戦争。
戦争さえなければね。
この前も新聞に出てたけど、異国の人で、好きな人じゃなくても自分の子どもを助けるために
「どうかこの子に食料を与えてください、お願いします」って言って自分の体を男に委ねるーーそういう女性の記事を社会面で見てね。
「日本の国はなんと平和なんだろう」って。
戦争に行って戦死した人たちの犠牲のもとに今の暮らしがある。
令和の時代は平和でしょう。
それを若い人たちは知ってるのかしら……ってものすごい思ったわね。
私たちも戦時中はもうめちゃくちゃだったからね。
戦時中に軍歌っていうのがあったでしょう。
♪今日も暮れゆく
異国の丘に♪(*2)



「どんな気持ちでこの歌に送られて戦争に行ったんだろう……」という気持ちが大きかったから、この終戦直後のことを書いたのね。
その時の……
♪勝って来るぞと 勇ましく
ちかって故郷を 出たからにゃ
手柄たてずに 帰れよか
進軍ラッパ聴くたびに
まぶたに浮ぶ 母の顔♪(*3)



そういう軍歌に送られて戦争に行ったんでしょうね。
それでもやっぱり瞼に浮かぶのは“母の顔”なのよ。
だから母がいかに大事だったか。懐かしく、恋しかっただろうにねーー。
今、日本人は、令和は戦いの時代じゃないでしょう。
「戦いはスポーツだけにしてほしい。本当の戦いは絶対にしてはいけません」って、この間、私、投稿にも書いたのよ。
*2 …「異国の丘」(作詞:増田幸治作曲:吉田正)
*3 …「露営の歌」(作詞:藪内喜一郎 作曲:古関裕而)の本来の歌詞は「勝って来るぞと勇ましく/ちかって故郷を出たからにゃ/手柄たてずに死なりょうか/進軍ラッパ聴くたびに/まぶたに浮ぶ旗の波」ですが、こちらも“糸川節”でお聞きください。
10.認知症の人たちのこれから



―「これからこんな作品を書いていきたい」という質問に、「小学唱歌」と答えられていますね。



小学唱歌を歌うっていうことは、自分の小学時代を思い出すでしょう。
だから私、すごくね、小学唱歌っていうのは大事なことだなと思うのよね。
それから、認知症の人たちの今後。
どう生きるのかについて書いていきたいわね。
あと、「若い人たちへ」っていう質問には、「どんな人でも歳をとるのです。現在の老人を見て、自分もそのうちにその仲間に入るのだと思い、
老人を大切に生きてほしいと思います」って書いたけどーー。
まぁ、ずいぶん自分勝手なことを言うわね(笑)。



―糸川さんご自身は、どんなふうに1日1日を過ごして生きていきたいですか。



今まで喋ったように、ここを終の棲家だとしてるからね。
だから、ここで、職員さん、それから入居者のみんなと仲良く、争いごとのないように。
時には、私の性格だから、嫌われるようなこともちょくちょく出るけど(笑)。
でもそういう時は「昨日ごめんね、あんなこと言っちゃって。水に流してね」って言って。
それで終わりにしよう。
とはいえ水に流せることと流せないことがあるんだけどね。
だけど「うーん、悪いこと言っちゃったな」と思ったら、
すぐに「ごめん、申し訳ない」「つい余計なこと言っちゃってごめんね。あんた、気に障ってるでしょ。ごめんね」って言って。
そういう生き方してるわね。



―人あっての生活の場ですものね。



そう、やっぱりね。
どこか逃げていく場所があるならいいわよ。
そうじゃなくて、ここが終の棲家だとしたらーー。
昨日も「あたし帰るんだ」って言う人(入居者)がいて。
「何言ってるの、帰るの?だけど、あんた雨降りそうよ。よしな、明日にしなよ。
ね、今日はお天気悪い。すべって転んだら怪我のもとよ。だからよしな」って言ったの。
そういう、その場のことも大事。
そう言ったら、もう次の日にはその人、忘れてるのよ。帰ることを。
そしたら職員さんが、「私たちは『帰るなんて言って、どうしようかしら』と思ってたけど、糸川さんうまいこと言うね。嘘も方便ってそのことだよ」って。
そうやってーーここでは間を取り持つということを、私はやってるのね。


「いつもお風呂の前か後に(夕食の)副菜をつくってくださるんですが、
こちらが頼むタイミングによって『お風呂行く前にやっちゃうわ』っていう日もあるし、
『入ってきてからぱぱっとやっちゃうから、先お風呂行ってくるわね』っていう日も。
なんとなく流れがあるみたいですね」とは職員さんの話。
この日は2時間のインタビューが終わると、食堂で入居者とおやつを食べ、
夕食の酢の物づくりをし、お風呂セットを抱えて別ユニットのお風呂へ向かっていきました。
山根健さん(有限会社のがわ グループホームのがわ管理者)からのメッセージ
ふと目を閉じると、今も聞こえてくるようです。
「何か手伝おうか?」「酢の物でも作ろうか?」「これ乾いたから持ってきた。」などの糸川氏の声。
ご本人が召し上がった食事の味付けに感動されると「これ、どうやって作ったの?」「調味料は、何を入れたの?」と。
時には、新聞を読んだり、投稿を書いている際に分からない漢字や最近の言葉などがあると、「これ教えて。」と新聞とペンを持っていらっしゃいました。
私と糸川氏は、グループホームの管理者とそのグループホームの入居者という関係性ではありましたが、
そんな関係性は抜きに一人の人間として、どんなことも学ぶ意欲の高さと行動力には、脱帽し、感動したのを昨日のように覚えております。
私は、今回の糸川氏の記事を読んではもちろん、糸川氏の行動に励まされていた一人です。
ありがとうございました。