認知症が「特別なことでない」暮らしのある風景 ~私はここで人情と、人間と、わたしの認知症を観察しています。~7.明日のことなどわからない糸川徳子さん:だから、まぁね、色々と、人生色々。明日のことはわからない。その日が1日無事に過ぎてね。あんまりくよくよ考えないこと。朝が来れば夜が来る、夜が来れば朝が来るでね。越路吹雪のなんとかっていう歌、あったじゃない。♪明日のことなどわからないケセラセラなるようになるわ明日のことなどわからない♪(*1)越路吹雪「ケサラ」糸川徳子さん:っていう歌あったでしょう。だから私、その歌の文句をね。それはそうだなと思って。インタビュアー:そうですね。糸川徳子さん:それでね、私、思ったんだけど、こういう企画は、1年に1回やってるの?1年に1回、私を追跡調査したらどうかしら。1年したら、あの時、偉そうに認知症がどうのこうの言ってた人が、「今はどういう暮らしをしているんだろう」って言って追跡していったら面白いだろうな。今だったら、「あなたにこういう話をした」っていうことが頭にあるけど、1年経ったら「あなたどなたですか?」ってね。「あの時、こういう話をしてましたよ」「それは誰の話ですか?そうなんですか。初めまして、よろしくお願いします」って言うように来年はなってるかもわかんないからね。だから、それも面白いなぁと思って(笑)。インタビュアー:じゃあ、毎年来ないといけないですね(笑)。糸川徳子さん:だからね、人生、考え方によっては、どうせあの世へ行くんですよ、誰だって。それならこの世にいる間は楽しく、日々を生活していく。朝が来れば夜が来る、夜が来れば朝が来るでね、そういうふうに思って楽しまなきゃ損だなっていう気持ちです。まぁ、偉そうなこと言ってるわね(笑)。インタビュアー:糸川さん、今、お話を始めて1時間ぐらい経ちました。疲れたりしてませんか?糸川徳子さん:全然。私はね、お喋りが好きだから。インタビュアー:それならよかったです。糸川徳子さん:あのね。話してたら、どんどんどんどん話が。だから時々、職員さんから「糸川さん、チャックしよう。チャック外れてるよ」って言われて、「どこどこ?」(洋服を見る)って。「そこじゃないよ。ここよ(口を指す)」。「あぁ、これは外れっぱなしよ」って言ってるわね、いつも(笑)。*1 …越地吹雪『ケサラ』(作詞:F.Migliacci・訳詩:岩谷時子 作曲:C.Pes・J.Fontana)の本来の歌詞は「だけど明日は/どうなることやら/だれもわかりはしないさ/ケ・サラ ケ・サラ ケ・サラ」ですが、ここでは“糸川節”としてお聞きください。「糸川さんは、他の入居者のことも見てくださるんですよ。『あの人、今、違う人の部屋に入ったわよ』とか。何かあると、私たちに教えに来てくれるんです。職員だけでは目が届かないこともあるので、『ありがとう〜』ってなりますね」(職員談)8.人生はピンチとチャンスの繰り返しインタビュアー:思い出に残っている俳句がいくつもあるんですね。糸川徳子さん:そうそう、例えばこれね。起きて見つ 寝て見つ 蚊帳の 広さかな加賀の千代女糸川徳子さん:これは私が書いたんじゃないのよ。加賀の千代女っていう人が書いた有名な俳句。思い出して書いたのね。私たち子どもの頃は、夏になると蚊が来るからって蚊帳を部屋に吊ってたの。蚊帳って知ってる?ある時、「蚊帳を買い換えたのはどうしてなんだ」っておじいちゃんが聞いたから、孫達が「新しい蚊帳が広くていいから、大きくていいから。蚊帳に穴が開いてたから、そこから蚊が入ってくるから、新しい蚊帳がほしいってみんながそう言ったんだ」「蚊が来なくてよかったな」って言って、兄弟たちが蚊帳の中でふざけっこしてたの。でも私は黙って聞いてて、その時に私が涙ぐんだらしいのね。おじいちゃんが「あつこ、お前どうしたんだ」って言うから、だってーーさとしっていう弟がね、死んだのよ。だから「さとしが死んだから、蚊帳の中が広く感じて寂しくて」って言ったらおじいちゃんがーーもうタバコ臭いの、あの頃はキセルでタバコ吸ってたからーー私を抱きかかえて、「この子はものすごい俳句の素養のある子だ。この子は大事にして、おじいちゃんの後を継がす」って。「そうだ、新しく蚊帳を買ったから“よかった”んじゃなくて、ひとり子どもが死んで、今まで5、6人の子どもが蚊帳の中でふざけっこしてたのに、その弟が死んで蚊帳が広くなった。これはその寂しさを詠った俳句なんだ」って言ってね。「徳子は文才がある」って、その時にすごく褒めてくれたの。それで私を俳句の学校へ連れて行って、1ヶ月に1回。(香川県の)有明浜に、なんとか庵っていうとこがあって、「お前はじいちゃんの後を継いでくれよ」って言って、そこに私を連れてってくれた記憶があるの。それから、俳句にすごく興味を持ったわけ。それともう1つは、中秋の名月の時に書いた名月を とってくれろと 泣く子かな 小林一茶糸川徳子さん:これは小林一茶が書いたの。おじいちゃんが「あまりに綺麗だから」って、空を見ながら私たちは外へ出て、それで「お月さんを見てみろ」って。「中秋の名月って言って、1年でいちばん綺麗な十五夜のお月さんだよ」って言って、みんなで見てたの。おじいちゃんが一生懸命説明して、その時に私は「だけど、あれ、本当に取りに行けるのかなぁ」言うて、いつまででも見てたの。他の子どもたちはさっさと「お月さん、結構やの」言うてさっさと部屋に入ったんだけど、私は「結構なお月さんじゃなぁ」ってじっと見てたら、涙が溢れてきてーー。私は覚えてないのよ。でもおじいちゃんは、「この子は絶対に俳句の素養のある子だから、大事に育てなきゃいけない。“どうげつそうしょう”の後継ぎだ」っておじいちゃんが言ったのを今でも覚えてるの。人生はピンチとチャンスの繰り返しインタビュアー:この言葉は糸川さんの言葉ですか?糸川徳子さん:これはね、野球なんかでも、ピンチになったらチャンスもあるでしょ。そのことで人生だってあんまり悲嘆ばっかりしてても。でもチャンスはある。それから、いい気になってたってピンチになる場合もあるって。それは私の考えだわね。だから人生は、ピンチとチャンスは裏表。常にそれはあるんだってーー夜が来れば朝が来る、朝が来れば夜が来るっていう風な意味合いでね、それから夏目漱石だったかな、「情にほだされば流される、とかくこの世は住みにくい」。それはね、おじいちゃんが言ったのでもない。私が漱石の随筆集だかなんかを読んでね。「それはそうだな」っていうのが頭にあったのね。だから、小さい時に読んだものは、今も頭の中に入ってるのね。9.終戦の頃糸川さんが暮らす部屋。掲載された新聞記事の切り抜きが、額に入って仏壇の上に飾ってありました。「○日の新聞に投稿が載るのよ」と利用者や職員に話し、記事の掲載を心待ちにしていたという糸川さん。掲載当日には、コピーした記事を職員や入居者に配り、自ら“広報部長”に。インタビュアー:毎日新聞に載った投稿では、戦争のことにもふれていました。香川に住んでいらした頃に迎えた終戦記念日について、子どもの頃の目線で書かれています。糸川徳子さん:毎日新聞『女の気持ち』(投稿欄)。これはやっぱり昔の終戦の頃の思い出ね。それはずっと忘れることはできないわね。辛かったわよ。空でB29がボーンボーンと爆弾を落としてるんだよ。それに下では、アメリカ兵をやっつけるために、なぎなたの練習。上からはB29がどんどん、どんどん落とされるのと、どっちがどうなんだろうーー。子ども心にね、「こんなことして戦争に勝てるのかしら」っていうのは思ったわね。ねぇ、ほんとに馬鹿なことしたわね。それで戦死したのは「万歳、よくぞお国のために尽くしてくれた」って。あたし、今でもそれは頭にあるんだけど、戦争に行って戦死して、それを見送って、日の丸の旗を立てて「よくぞ日本の国のために尽くしてくれてありがとう」って言って。でも、そしたら隣の人がひそひそ話してるの。「うちの主人も、戦争に行って戦死してくれたら恩給がつくのに、戦争にも行かずに家でグダグダしてる。それならいっそのこと戦争に行って恩給でももらったら、その方がずっと私たちのためになるのにな」「あの人は今は辛そうにしてるけど、そのうちに国からの恩給が出て、左うちわの生活になるんだよ。羨ましいな」っていうのを話してるのを、子どもの私が耳にしてーー。その人の前に行ってね、私。「恩給をもらうために戦死するなんて、よくもそんなことをあの人の目の前で言えるな」って言ったわね。これ、子ども心にね、涙ふいてね。それも忘れられない思い出よね。インタビュアー:新聞やニュースを見ていると、今も世界中で戦争が起こってます。糸川徳子さん:私はね。いちばん、何より嫌なことは戦争。戦争さえなければね。この前も新聞に出てたけど、異国の人で、好きな人じゃなくても自分の子どもを助けるために「どうかこの子に食料を与えてください、お願いします」って言って自分の体を男に委ねるーーそういう女性の記事を社会面で見てね。「日本の国はなんと平和なんだろう」って。戦争に行って戦死した人たちの犠牲のもとに今の暮らしがある。令和の時代は平和でしょう。それを若い人たちは知ってるのかしら……ってものすごい思ったわね。私たちも戦時中はもうめちゃくちゃだったからね。戦時中に軍歌っていうのがあったでしょう。♪今日も暮れゆく異国の丘に♪(*2)糸川徳子さん:「どんな気持ちでこの歌に送られて戦争に行ったんだろう……」という気持ちが大きかったから、この終戦直後のことを書いたのね。その時の……♪勝って来るぞと 勇ましくちかって故郷を 出たからにゃ手柄たてずに 帰れよか進軍ラッパ聴くたびにまぶたに浮ぶ 母の顔♪(*3)糸川徳子さん:そういう軍歌に送られて戦争に行ったんでしょうね。それでもやっぱり瞼に浮かぶのは“母の顔”なのよ。だから母がいかに大事だったか。懐かしく、恋しかっただろうにねーー。今、日本人は、令和は戦いの時代じゃないでしょう。「戦いはスポーツだけにしてほしい。本当の戦いは絶対にしてはいけません」って、この間、私、投稿にも書いたのよ。*2 …「異国の丘」(作詞:増田幸治作曲:吉田正)*3 …「露営の歌」(作詞:藪内喜一郎 作曲:古関裕而)の本来の歌詞は「勝って来るぞと勇ましく/ちかって故郷を出たからにゃ/手柄たてずに死なりょうか/進軍ラッパ聴くたびに/まぶたに浮ぶ旗の波」ですが、こちらも“糸川節”でお聞きください。10.認知症の人たちのこれからインタビュアー:「これからこんな作品を書いていきたい」という質問に、「小学唱歌」と答えられていますね。糸川徳子さん:小学唱歌を歌うっていうことは、自分の小学時代を思い出すでしょう。だから私、すごくね、小学唱歌っていうのは大事なことだなと思うのよね。それから、認知症の人たちの今後。どう生きるのかについて書いていきたいわね。あと、「若い人たちへ」っていう質問には、「どんな人でも歳をとるのです。現在の老人を見て、自分もそのうちにその仲間に入るのだと思い、老人を大切に生きてほしいと思います」って書いたけどーー。まぁ、ずいぶん自分勝手なことを言うわね(笑)。インタビュアー:糸川さんご自身は、どんなふうに1日1日を過ごして生きていきたいですか。糸川徳子さん:今まで喋ったように、ここを終の棲家だとしてるからね。だから、ここで、職員さん、それから入居者のみんなと仲良く、争いごとのないように。時には、私の性格だから、嫌われるようなこともちょくちょく出るけど(笑)。でもそういう時は「昨日ごめんね、あんなこと言っちゃって。水に流してね」って言って。それで終わりにしよう。とはいえ水に流せることと流せないことがあるんだけどね。だけど「うーん、悪いこと言っちゃったな」と思ったら、すぐに「ごめん、申し訳ない」「つい余計なこと言っちゃってごめんね。あんた、気に障ってるでしょ。ごめんね」って言って。そういう生き方してるわね。インタビュアー:人あっての生活の場ですものね。糸川徳子さん:そう、やっぱりね。どこか逃げていく場所があるならいいわよ。そうじゃなくて、ここが終の棲家だとしたらーー。昨日も「あたし帰るんだ」って言う人(入居者)がいて。「何言ってるの、帰るの?だけど、あんた雨降りそうよ。よしな、明日にしなよ。ね、今日はお天気悪い。すべって転んだら怪我のもとよ。だからよしな」って言ったの。そういう、その場のことも大事。そう言ったら、もう次の日にはその人、忘れてるのよ。帰ることを。そしたら職員さんが、「私たちは『帰るなんて言って、どうしようかしら』と思ってたけど、糸川さんうまいこと言うね。嘘も方便ってそのことだよ」って。そうやってーーここでは間を取り持つということを、私はやってるのね。1日のスケジュールを決めているという糸川さん。毎夕16時〜17時がお風呂の時間。「いつもお風呂の前か後に(夕食の)副菜をつくってくださるんですが、こちらが頼むタイミングによって『お風呂行く前にやっちゃうわ』っていう日もあるし、『入ってきてからぱぱっとやっちゃうから、先お風呂行ってくるわね』っていう日も。なんとなく流れがあるみたいですね」とは職員さんの話。この日は2時間のインタビューが終わると、食堂で入居者とおやつを食べ、夕食の酢の物づくりをし、お風呂セットを抱えて別ユニットのお風呂へ向かっていきました。山根健さん(有限会社のがわ グループホームのがわ管理者)からのメッセージふと目を閉じると、今も聞こえてくるようです。「何か手伝おうか?」「酢の物でも作ろうか?」「これ乾いたから持ってきた。」などの糸川氏の声。ご本人が召し上がった食事の味付けに感動されると「これ、どうやって作ったの?」「調味料は、何を入れたの?」と。時には、新聞を読んだり、投稿を書いている際に分からない漢字や最近の言葉などがあると、「これ教えて。」と新聞とペンを持っていらっしゃいました。私と糸川氏は、グループホームの管理者とそのグループホームの入居者という関係性ではありましたが、そんな関係性は抜きに一人の人間として、どんなことも学ぶ意欲の高さと行動力には、脱帽し、感動したのを昨日のように覚えております。私は、今回の糸川氏の記事を読んではもちろん、糸川氏の行動に励まされていた一人です。ありがとうございました。